2018年新しい保育所保育指針が改定され早3年が経ち、その中の1つの主題とも言える『主体性保育』という言葉が歩き始め、様々な書籍や研修会で解説され、先進的な保育所はそれぞれの考えのもとに主体性保育を進めています。
しかし私は、その主体性の考え方や主体性保育の進め方に少し違和感を感じています。

今日はその主体性保育における以下の私の個人的な3つの違和感についてお話ししていきたいと思います。

(1)主体性と自主性と言う言葉の意味の勘違いに対する違和感について

さて、私たち保育者は、この主体性保育の『主体性』という言葉の意味を正しく理解し、保育をしているのでしょうか?

保育所保育指針の中に主体性という言葉が多く使われ、多くの研究者・保育所がその主体性保育の意義や保育方法を論じ、様々な書籍や研修会で紹介されていますが、驚いたことに、私はこの“主体性”と言う言葉の意味が誤って“自主性”と言う言葉と勘違いされて理解されていると言う事実があることに気づいてしまったのです。

『主体性』という言葉本来の字義的な意味は、

“決められた枠の無い中で自分の意思を決定行動していく事”と有ります。

それに対して『自主性』と言う言葉は、

“決められたテーマの中で発揮されるやりたいと言う主張“と書かれています。

この両者の間には、決められた枠があるか?ないか?と言う条件下のもとで発揮される特質であることがわかる訳ですが、多くの場合この主体性という言葉が、自主性という言葉と勘違いされて理解されていることが実際にあることが分かったのです。

これが分かったのは、先日私ども保育所が第三者評価を受けた時の事でした。
その中の『主体性保育に関する設問』が書かれているところで、園としてどのような援助をしているか?と言うところを見る設問だったのですけれども、その設問にはこう書かれていました。

“子どもが集団活動に、主体的に関われるように援助しているか?”
と言う設問に対して、園としてどのように関わっているか?と言う点を見る評価なのですが、

アレ?この設問、ちょっとおかしく無いかな?

主体的に関わると書かれているのに集団活動の中に援助??

(主体性と自主性を間違えて質問していないか?)と思い、第三者評価のこの評価機構に電話で聞いてみたところ、この評価機構の方たちも主体性の意味を間違えて理解していたことが分かりました。

大元である国の評価機構が、主体性の言葉の意味を履き違えていたのでは、実践するわたしたちも当然混乱するのは致し方ない事なのかも知れませんが・・・この主体性保育の行き先は果たしてどうなってしまうのでしょうか?

(2)主体性を伸ばす・育てるという言葉の違和感について

次に主体性保育を考えていく上で、私たち保育者が自然に使っている、「主体性を伸ばす」とか「主体性を育てる」という言葉に、私は大きな違和感を感じずにはいられないのです。

何故かというと、そもそも主体性と言う特質は、誰でも赤ちゃんの時からもともと備わって生まれてきているからです。

生まれたばかりの赤ちゃんは主体性の塊です。

おっぱい飲みたい!ねんねしたい!抱っこしてほしい!うんちが出て気持ち悪い!などなどその気持ちを泣くという行為によって発信します。

今日はお母さんが寝られなくてかわいそうだからと、お腹が空いていても朝まで我慢しよう!等という赤ちゃんはいません。

本能丸出し、主体性丸出しです。

その後もう少し成長して、寝返りを打つ、はいはいをする、つかまり立ちつたい歩きをする、自立歩行して興味のあるところへ出かけて行く、出かけた先でおもちゃなどをペロペロ舐める、などなど親や周りがあれしな!これしな!と言わなくても、赤ちゃんは主体的に動き回り遊びまわります。

今日はちょっと気分が乗らないから、はいはいするのやめようか!とか、歩くのやめようか?などと考え行動する赤ちゃんはいません。

赤ちゃんは、大人達が主体性を伸ばそう!育てよう!などとしなくても、自然に勝手に主体的な行動をとり成長しているのではないでしょうか?

ではなぜ、生まれながらにして持っている主体性と言う素晴らしい特質が、年齢とともになくなってしまうのでしょうか?

答えは簡単ですよね!

赤ちゃんが本来持っている主体性の芽を、誰かが摘んだり潰してしまっているからではないでしょうか?

一度摘んだり潰してしまって出なくなってしまった主体性の芽を、改めて伸ばすとか、育てるとか、私はこれって全く馬鹿げたことをしている様に思えてならないのです。

何故ならば、もともと赤ちゃんの時から持っている主体性と言う素晴らしい特質を、途中で摘まなければ自然にそのまま伸びていくのではないかと思うからなのです。

(3)主体性とやりたい放題は違うという違和感

私は、主体性を論じる専門家の方たちの中に、『主体性とやりたい放題は違う』という考えがある事を耳にします。

私たち現場の保育者が、今まで行ってきた一斉保育から、3歳児になって主体性保育に切り替えると、タガが外れた様に子ども達がやりたい放題を行なってしまい、収集がつかなくなりどうして良いかわからず戸惑っている質問に対して、

それは違うのですよ!と専門家目線で主体性保育の具体的な進め方を話しながら答えているだけで、主体性保育は良いもので、やりたい放題は悪いものであると、“ただ良し悪しを識別しているだけ”の様に思えてならないのです。

私は、主体性の保育とやりたい放題は、子ども目線で見た時殆ど何も変わらないものであると思っています。

専門家達が主体性保育を論じる時、その対象年齢は3歳児以降に向けられていますが、私は子どもの主体性の鍵となる年齢は

1歳児クラス”であると考えています。

先ほど『生まれたばかりの赤ちゃんは主体性の塊である』と書きましたが、私は主体性の正体と言うのは、自我であり、本能で有り、やりたい放題であると考えています。

周りの大人たちは、子ども達の成長を喜び、愛するが故に子どもの生理的欲求を、安全欲求を、愛情欲求を、承認欲求を満たしてあげますが、1歳半を過ぎた頃(第一次反抗期)から子どもに自我が生まれ始め、それらの欲求は反発となり

食べたくない!寝たくない!おむつ取り替えたくない!母の愛情表現を受け入れたくない!と、周りの大人からは望ましくない自我を出し始めます。

そんな時、周りの大人たちはどうするでしょうか?

我がまま・やりたい放題の行為を、ルールを作り大人の圧力で封じ込めようとします。
また、子どもの心をコントロールするのが上手い大人たちは、子どもの心を騙してその気にさせ、躾と称して我がままや、やりたい放題の芽を摘んで行きます。

保育所では、子ども達の生活リズムをつけると言う観点からも、一律の午睡をさせ、嫌いなものでも口に入れ、トイレトレーニングをさせます。

また、安全を守る観点から、危険なことを避けさせるため、「部屋で走ってはいけない」「高いところに登ってはいけない」「飛び降りてはいけない」

危ないからやってはいけないと言って、“ルール”を作りがんじがらめにして子どもの本能から出るやりたいと言う気持ちの芽を摘んでしまっています。

このように保育所では、特に1歳児クラスの時に、生活リズムや安全確保と言う観点から、子どもの本能である我儘・危険・やりたい放題を「悪いこと』と見て、しない・させない保育をしているようです。

その結果、主体性の芽は摘まれ伸びなくなると言う大きな代償を払い、先生の言うことをよく聞くいい子ちゃんが出来上がっていく・・・そして主体性のなくなった子どもに、改めて3歳児ごろから主体性の保育をしなければならなくなっている・・・

こんな主体性保育の実態は、こんな日本の今の保育事情を反映しているように思えてならないのです。

★主体性の芽を摘まずに保育をしていると・・・

私は(1)〜(3)まで、主体性保育の違和感を、子ども目線から話を進めてきましたが、最後に自分の保育所Agape八幡山園の子ども達に目を向けてみたいと思います。

当園の子ども達はというと、保育者が取り改めて子どもの主体性を伸ばすための特別な保育(環境設定)を行っている事はありません。何もしていなくても、0〜6歳児の子ども達は皆主体性の塊です。

自分の食べたいものを食べ、自分の寝たいときに眠り、自分のやりたい遊びをやり、自分を主張し、噛みつき、喧嘩をし、泣き、笑っています。

先日、保育所の紹介アプリを作っている方のインタビューを受けましたが、その方が言うにはAgape八幡山園は他のどこの保育園と比べて異なっているところがあると言われました。

「それはなんですか?」とお聞きすると、その方は

「Agapeの子ども達は杉並区のどの保育所よりも元気で明るい!」と言ってくださいました。

他の園を私は見ていないので、なぜそうなのか分かりませんが、それはきっと私たちの保育所には、子ども達に「あれしちゃだめ!これしちゃだめ!」と言うルールが少なく、子ども達の自由な意思や自由な時間を保障してあげているからではないかと思っています。

私としてはとても嬉しいお褒めの言葉として受け取らせていただきました。

主体性の保育・・・取り改めたそんな保育本当はいらない。ただ子ども達の可能性を信じ、異年齢の集団で自然で自由に遊ばせていれば、子どもの主体性は勝手に伸びていく・・・

そんな事を思う今日この頃です。