◉第一条 保育所を始めたいきさつ
今から23年前の12月、確か10日だっただろうか?愛する妻と子ども達に支えられ、保育所のフランチャイズの新聞広告を見て、この保育業界に新規一転飛び込むことを決意した。
『あなたもうん百万円で保育所のオーナーになれる⁉️』
こんな新聞広告を見て、私は『これだ‼️』と声を挙げた。
そして、『よし‼️また、子供の世界に戻れるぞ❗️』とトイレの便器で叫んだことを昨日の事ように思い出した。
ジャ〜!とトイレの水を流し、即妻に相談をするも、当時、子供6人・・・1番下の子がまだ一歳、都営アパートに進み、当時細々とクリーニングの取り次ぎをしていた私に、そんなお金はあるよしもなかった。しかし、奮い立った私の心は消えるはずはなかった。
妻に何とか拝み倒して金索をひねり出した。
『6人の子ども達にかけている学資保険を解約するのはどうだろうか?』
こんな提案をするも、頭ごなしに却下💦『あなたバカじゃないの?これは子ども達の将来のために積み立てているお金でしょ?』と1本も歩み寄ってくれなかった。
『そっかぁ〜そうだよな・・・』13年続けた子供のアウトドアの仕事を退職してから丸7年・・・
お弁当屋で起業し、さらに4年後に母に4,500,000円の借金をして、クリーニング屋の取り次ぎ店の権利を買い、クリーニング屋を始めるも、なかなか経営がうまくいかず、『またなの?はぁー💦』と、思われていたに違いない。
◉やっぱり戻りたい!
5年間続け、お客様に愛されていたお弁当屋も、過酷な飲食店の日々に、業務に嫌気をさし、『また子ども達の世界に戻りたい・・・』と思う事が多くなった。
お弁当を配達していると、子ども達の遊ぶ姿を見る度に、『また子ども達の世界に戻りたい・・・』と私の心は何度も揺れ動いていた。
過酷な業務の飲食業から一転して、お客さんが来ない時は、何時間もやる仕事がないクリーニング屋の取り次ぎ店の業務では、またまた『あぁ〜💦また、子ども達の世界に戻りたい❗️』そんな思いがなお一層頭の中を巡ることが多くなってきたのであった。
『あっそうだ!また変なことを思い出した💦』
クリーニングの取り次ぎ店は、常時忙しい飲食店と異なり、1年のうち、繁忙期と閑散期が、恐ろしいほどの落差があり、閑散期となると、家族を養っていく事に強烈な不安に襲われることがあった。
その不安から何とか小銭でも稼がなくてはと思い立ち、手内職の仕事(小さな電気部品のバリをハサミで切り取る)を取って来て、当時、小学生や中学生になっていた娘たちと妻とに手伝ってもらい、毎晩夕食後に子ども達の好きなテレビも見せないで、ちょきちょき、プラスチックの小さな電気部品のバリ取りを人海戦術でさせていた事を急に思い出した💦
この手内職の仕事も、家族で1ヵ月間、頑張っても数千円にしかならず、小学生がやる仕事なので、不完全でやり直しも入り、子ども達のぼやきが先行し、結局長続きせずに先倒れになってしまったのを記憶している。
今から振り返ってみると、俺は当時からやることがいつも思いつきで行動し、妻や子ども達を巻き添えにしていた、しょうもない親父だったんだな💦と今になって反省した。
しかし、ブーブー文句を言いながらもついてきてくれていた、妻や子ども達に感謝の思いしかない・・・
なんか船旅の初日、真夜中に起きて書き始めた思い出・・・感傷的になって、涙が出てきてしまった🥲
そうだ!それからこんな事もあったっけ・・・
私の家族は子宝に恵まれ・・・というより、私が節操なく子作りに励んだ・・・と、いうより、本能のままに生きてきたので、長女ができてから、5年間に4人の子達(女女女男)を授かることになったのである。当時は、仲間たちから、『お前は機関銃だな❗️ダダダダッー』と言われるほどだった。
その後5年間を経て、(男男)を授かった為、女3人、男3人、計6人の子ども達を養っていかなければならなかったのであるが、当時のエンゲル係数が物凄く、私と子ども達の食欲が凄まじかった💦
確か1ヵ月米60キロ、その他にパスタやパンも食べていたと当時妻が語っていた。
私も覚えていたのだが、一食にパスタ2キログラムを茹でて、大皿に異なったレトルトソースが絡まって出てきた時に、私は妻に『こんなに食い切れるわけがないだろう!』と文句を言ったのだが、なんだかんだ言いながら、私と上の子4人の子たちでペロリと完食してしまったことを記憶している。
そんな子ども達のために焼肉を食べさせてあげたいと、たまに行った家族のイベントが、鶏の胸肉をホットプレートで焼く焼肉だった。
当時100グラム30円から40円で買えた冷凍鶏胸肉を薄くそぎ切りにし、めんつゆに漬け込んで、子ども達が一人ひとり生卵を小鉢に割りといて、その中につけた鶏肉の生肉を生卵にくぐらせて、それぞれがホットプレートで焼いて食べると言う焼肉スタイルであった。
牛肉どころか、豚肉でもない、当時1番安かった。鶏胸肉の焼肉を、『美味い!美味い!』と言って、ご飯を何杯もおかわりして食べてくれたっけ・・・
あ〜また昔を思い出したら涙が出てきてしまった・・・
そんな当時の家族の行事に、毎週出かけるキャンプがあったなぁ・・・
私が以前13年間、勤めていたアウトドア活動でよく利用していた、埼玉県日高市に流れる高麗川の巾着田に、ゴールデンウィークを皮切りに、5月から10月まで半年間、毎週のように遊びに出かけていったのである。
この自営の仕事をしながら、週末だけでも子ども達に関わる仕事がしたい!と熱望した私は、駄菓子問屋へ行き駄菓子を購入して、キャンプ場で手作りのかりんとうを作って人が集まるバーベキューサイトに出かけて行き、『紙芝居大道芸』を行ったのである。
長男に紙芝居と書いたのぼりを持たせ、太鼓を叩きながら、練り歩き家族連れの子ども達を集めて紙芝居を行ったのである。上の子達は、恥ずかしがってついても来てくれなかったが、長男だけは私に着いて来てくれたのであった。
あの時のバカみたいな私の行動についてきてくれた長男、、、彼の素直な心を思い返すだけでも、胸が熱くなってきた・・・
こんな単純な俺の姿を見せたからか?
いや、こんなアホな生き様を見て諦めたからか?
後に妻は子ども達に積み立てていた、学資保険の解約を許してくれるのであった・・・
◉こんなのどうでも良いこだわりの話
ゴリさんの子ども達の名前
ゴリさんのアウトドアの先輩に、当時東京電力で働いていた宮田善幸さんと言う個性的な方がいた。彼は『親父のできる事は子供の名前をつけることぐらいだ❗️』と豪語する人で、私は彼が主張するその言葉が妙に心に響いており、6人の子供、すべての名前をつけることにしたのである。
長女 幸生子(さちこ)
次女 明生子(あきこ)
三女 和生子(わきこ)
長男 牧生大(まきお)
次男 岳生大(たみお)
三男 波生大(なみお)
女の子3人は、人の心に関わる8画の文字を入れ、男の子3人は、自然に関わる8画の文字を入れた。
そして、すべての子に生きるの文字(5画)を入れ、女の子には子の文字(3画)男の子には大の文字(3画)を入れ、すべての子供の名前の画数は、8・5・3の共通の画数にすることにした。
そして、名前の言葉の読み名の母音をすべて、『あ・い・お』の共通にしたのである。
5年間で、4人の生まれた子達は、妻の反対を押し切って、その後5年の時を経て生まれた次男三男の名前は上の子達の反対を押し切って、父親の威厳というより、宮田先輩の言葉を貫き、名前の文字の画数も、『生』と言う文字も、呼び名の母音も6人の子ども達、すべて平等になるように名前をつけたのであった。
こんな事、どうでも良い話です💦