はじめに

最近、「子ども主体の保育」という言葉を、よく耳にするようになりました。

特に運動会などの行事では、子どもたち自身が話し合い、何をするのか、どのように進めるのかを決める。保育者はファシリテーターとなり、子どもたちの意見を引き出しながら、陰から支える。

そんな実践も増えてきました。

私は、こうした保育を否定するつもりはありません。

子どもたちが自分の思いを伝え、仲間の意見に耳を傾け、話し合いながら物事を決めることには、大切な意味があると思っています。

ただ、以前から少し違和感を覚えていることがあります。

子ども主体の行事を行うことと、子どもの主体性を育むことは、本当に同じなのでしょうか?

今日は、そんな私の思いをお話ししたいと思います。

「足が遅いから、運動会の練習には出たくない!」

私は、幼児保育のキャリアアップ研修で、こんな問いを投げかけることがあります。

「運動会の練習で、ある子が『僕は足が遅いから、練習には参加したくない』と言いました。あなたなら、どのように関わりますか?」

皆さんなら、どうしますか?

「大丈夫だよ。速く走ることだけが大切じゃないんだよ」と励ますでしょうか。

「じゃあ、ほかの競技に参加してみる?」と提案するでしょうか。

それとも、「そうか、出たくないんだね」と、その子の思いを受け止めるでしょうか。

どの関わりにも、保育者なりの願いや愛情があると思います。

でも、私はもう一つ考えてみたいのです。

そもそも、その子は運動会の練習に参加しなければならないのでしょうか?

私たち保育者は、知らず知らずのうちに、子どもを行事に参加させることを前提にしてはいないでしょうか。

子どもが何を願っているのかを考える前に、どうすれば参加できるかを考えてしまう。

そこに、保育を見直すきっかけがあるように思うのです。

✶子ども主体の保育に、決まった形はあるのか?

近年、子どもたちが会議を開き、運動会の種目や進め方を決めるという実践を耳にします。

子どもたちが自分の意見を出し合い、みんなで相談して決める。

とても素敵な取り組みだと思います。

でも、私はこうも思うのです。

その会議は、誰が開こうと考えたのでしょうか。

運動会の内容をみんなで決めるという枠組みは、誰がつくったのでしょうか。

もちろん、大人がきっかけをつくったからといって、子どもの主体性が失われるわけではありません。

ただ、話し合いが上手にできたことや、みんなの意見がまとまったことを、主体性が育った証しとしてしまってよいのでしょうか。

私は、そこに違和感があるのです。

保育者は、ときに研究者や専門家が示す実践方法を、正しい保育の形として受け取りがちです。

研究には大切な価値があります。私たちは、研究から多くのことを学ぶ必要があります。

しかし、その方法を形よく再現することに一生懸命になってしまったら、目の前の子ども一人一人の姿を見失うことはないでしょうか。

子ども主体とは、保育の形ではなく、子どもとの関わり方なのだと、私は考えています。

✶昔の路地裏にあった「この指とまれ!」

私は子どもの頃、近所の異年齢の子どもたちと、よく遊んでいました。

今のように、大人が遊びの内容を考えたり、子どもたちの話し合いを進行したりすることはありませんでした。

年長の子、いわゆるガキ大将が、

「おーい! この指とまれ!」

と声をかける。

すると、子どもたちが集まってくる。

でも、全員が集まるわけではありません。

その遊びが嫌なら、参加しなくてもいい。途中で抜けてもいい。別の遊びを始めてもいい。

そして、遊びが始まれば、当然のように喧嘩も起こります。

自分の思いどおりにならない。負けて悔しい。仲間に入れてもらえない。誰かに意地悪をされることもある。

子どもというのは、決して最初から物分かりがよく、行儀よく話し合える存在ではありません。

自分の願いを通そうとする、むき出しの思いを持っています。

私は、その姿を否定したくないのです。

そんな思いをぶつけ合いながら、子どもたちは少しずつ他者の存在に気づき、自分の思いとの折り合いを学んでいくのではないでしょうか。

私自身、決してガキ大将だったわけではありません。むしろ、ガキ大将の下で遊んでいた一人でした。

でも、その経験が、後に自分の意思で考え、行動する力につながったと感じています。

主体性とは、全員がリーダーになることではありません。

誰かについていくことも、自分の意思で選んだ行動なら、そこには主体性があります。

そして、いつか自分が「この指とまれ!」と声をかける側になることもあるでしょう。

私は、そんな自然発生的な子ども同士の関係の中に、主体性の種があると思っているのです。

✶何でもありの運動会!?

私は以前、保育所を経営していた頃、少し変わった運動会を行っていました。

といっても、競技の内容は昔ながらの運動会です。

徒競走、障害物競走、玉入れ、大玉送り、遊戯。大人のリレーや綱引きもありました。

体育館を借りて行う、ごく普通の運動会です。

ただ、一つ、大きく違うところがありました。

参加するのも自由。参加しないのも自由。

乳児が幼児の競技に出てもいい。同じ競技に何度出てもいい。走りたい子は、満足するまで何度でも走ればいい。

競技に出たくなければ、出なくてもいい。

そして、もう一つ。

子どもたちと保護者の席を分けませんでした。

親子で一緒に座り、会話をしながら、出るか出ないかを決める。

遊戯の衣装も保護者がつくり、親子で楽しむ。

保育者は、子どもを整列させたり、出番まで待たせたり、参加を説得したりする必要がありません。

もちろん、行事の進行や安全を守る仕事はあります。

でも、子どもたちの参加を管理する仕事は、手放すことができたのです。

せっかくお弁当を持って楽しみに来たのに、子どもが競技に一度も出ず、体育館の周りで遊んでいる。

そんな子に一日付き合っている保護者もいました。

反対に、どうしても競技に参加させたい親が、嫌がる子どもを連れていき、大泣きになってしまう場面もありました。

私は、そうした親子の姿も、すぐに保育者が正そうとはしませんでした。

親には親の願いがあり、子どもには子どもの願いがある。

その違いに、親自身が気づく機会にもなると思っていたからです。

もちろん、子どもの安全や尊厳が脅かされるような場面まで放置するということではありません。

けれども、親子の関係に保育者が何でも介入する必要はないと思うのです。

昔の鎮守の杜のお祭りのように

私は、この運動会を振り返ると、昔の日本の鎮守の杜のお祭りを思い出します。

お祭りでは、みんなが同じことをしているわけではありません。

神輿を担ぐ人がいる。太鼓を叩く人がいる。屋台を楽しむ人がいる。ただ眺めている人もいる。

それでも、みんな同じお祭りの中にいるのです。

私の運動会も、そんな行事でありたかった。

昔ながらの競争を楽しみたい子もいる。競争が嫌いな子もいる。何度も走りたい子もいる。一度も走りたくない子もいる。

そのどちらかに合わせて、運動会の形を一つに決める必要があるのでしょうか。

同じことをしなくても、同じ場を楽しむことはできるのです。

私は、運動会の形を新しくしたかったのではありません。

子どもたちや保護者が、それぞれの思いで関われる運動会にしたかったのです。

✶大人が主体的に生きて、何が悪い!

ここでもう一つ、私が大切にしていることがあります。

それは、大人自身の主体性です。

私は、運動会のすべてを子どもたちに委ねる必要はないと思っています。

運動会をやりたい!

こんな競技を楽しみたい!

みんなで盛り上がりたい!

そんな願いを、大人が持っていてもいいではありませんか。

組織にはビジョンが必要です。

園長や保育者が、何を大切にし、何を実現したいのかを示すことも必要でしょう。

そして、そのビジョンに共感した人が、自分の意思で関わっていく。

私は、そんな組織が好きなのです。

運動会で、大人たちが本気になって綱引きをする。勝って大喜びする。負けて本気で悔しがる。

そんな大人の姿を見て、子どもが「自分もやりたい!」と思う。

私は、これこそが「熱を伝える」ということだと思っています。

熱は伝える。でも、参加は強制しない。

大人も、自分の願いを持っていい。子どもも、自分の願いを持っていい。

そして、互いの願いを尊重する。

私は、そんな関係を大切にしたいのです。

✶子どもの自由を守るのは、保育者の「仁」

しかし、子どもたちが自由に関われば、必ずしも仲良く遊べるとは限りません。

自分の思いを通そうとする。仲間とぶつかる。意地悪をする。泣く。怒る。

私は、そんな子どもの姿も、成長の過程として受け止めたいと思っています。

そして、そんなときにこそ、保育者の「仁」の精神が必要になるのです。

意地悪をした子を、ただ注意するのではない。

意地悪をされた子を、ただかばうのでもない。

意地悪をした子の心も、された子の心も、どちらも守る。

どちらかを悪者にする前に、双方の願いや思いを受け止める。そばに寄り添う。

もちろん、危険な行為や人を傷つける行為は止めなければなりません。

しかし、行為を止めることと、その子の心を否定することは違います。

私は、子どもの自由を保障するためには、そんな保育者の存在が欠かせないと思っています。

自由とは、放任することではありません。

子どもが自分の願いを表し、仲間とぶつかり、ときには失敗し、また立ち上がる。

そんな経験を安心して重ねられるように、子どもの心を守ることなのです。

✶レジリエンスは、そんな日常の中で育っていく

今回、私がこのことを考えるきっかけになったのは、子どものレジリエンスについての問いでした。

子ども主体の保育では、競争や我慢する経験が少なくなり、子どもが弱くなってしまうのではないか。

そんな疑問です。

私は、必ずしもそうは思いません。

子どもたちは、仲間と遊ぶ中で、思いどおりにならない経験をします。

負けて悔しい思いもします。自分の願いを受け入れてもらえないこともあります。

それでも、また遊びたいと思う。もう一度挑戦しようと思う。仲直りして、また一緒に遊び始める。

そうした経験の中で、立ち直る力や粘り強さも、少しずつ育まれていくのではないでしょうか。

もちろん、つらい経験をさせれば、それだけでレジリエンスが育つわけではありません。

大切なのは、安心して挑戦できること。失敗しても、またやり直せること。そして、どんなときも自分の心を受け止めてくれる大人がいることです。

私は、子どものレジリエンスを育てようとする前に、子ども自身の育つ力を信じたいと思っています。

✶子ども主体の行事は、何のため?

最後に、もう一度問いかけたいと思います。

子ども主体の行事は、何のために行うのでしょうか。

子どもたちが上手に話し合うためでしょうか。

みんなで一つの行事を成功させるためでしょうか。

それとも、競争をなくして、誰も嫌な思いをしないようにするためでしょうか。

私は、そのどれか一つが正解だとは思いません。

そして、私が行っていた運動会こそが正しいと主張するつもりもありません。

私が願っているのは、もっと単純なことです。

子ども一人一人が、自分の願いを持ち、自分の意思で生きられるようになってほしい。

そして、自分と違う願いを持つ人も、大切にできる人になってほしい。

そのために私たち保育者は、何を教え、何を手放し、何を守ればよいのでしょうか。

行事の形を整えることに一生懸命になって、子ども一人一人の心を見失ってはいないでしょうか。

私は、そんなことを、これからも仲間たちと考え続けていきたいと思っています。

みんな自由な生き方をしようぜ!

そして、周りも尊重しようぜ!

それが、私の願う「子ども主体の保育」なのです。

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